社長、井上の経歴

家を建てるだけじゃない
建ててから本当のサービスが始まる
だから
真にお客様に寄り添える会社を作りたかった

社長ブログ写真2.jpg

プロフィール

1976年9月1日京都市生まれ
生まれも育ちも右京区の太秦

35歳で結婚した際に宇治市に転居
家族は妻、長女、長男、次男の5人家族
趣味は釣り、料理

小学校、中学校時代は剣道をしていました
中学生の時に始めたギターで生計を立てるため
高校卒業後は進学せずバンド活動をしていた

24歳の頃に夢に破れてバンドをやめる
1年半ほど人生に悩んだ末
大工職人の修行を始める

4年半ほど、ひたすら仕事に打ち込み
30歳の頃、独立開業し大工棟梁となる
それから、2023年に会社を設立するまで300棟近くの新築住宅を完成させ
店舗工事やリノベーションなども経験してきました。
20年ほど建築業界にいると、嫌な部分もたくさん目にしました。
とりあえず完成させればいい、売れればいい。
こんな気持ちで仕事をしている会社もありました。

「もっと、お客様を大事にできる会社ないんかな?」
ずっと考えていたのですが、あっても価格が高すぎたり。
なら、自分で会社を作ろうと思いました。

お客様を大切に、ロープライス&ハイクオリティで届ける注文住宅。
真にお客様を想う会社を設立いたしました。
あなたにお会いできるのを楽しみにしております。


ここからは、私のこれまでの人生を赤裸々に綴っています。
こんなページ誰も見ないだろ?と思って書いたのですが
意外と読んでくださってます。
おもしろかった!と言って下さるのですが、読むのに40分くらいかかるそうです。
ですので、基本的には読まないでください!(笑)


株式会社 stats living company 代表取締役 井上 茂雄の生い立ち~

1976年9月京都府京都市に生まれる。
俺 赤ん坊.jpg

父は、昼はプロパンガス店、夜は屋台のラーメン屋を営み、母も家でパンの販売をする

自営業の家庭に次男として生まれました。

ジャイアンツの服.jpg

私の名前の由来もこの写真をみていただいたら、ご理解いただけると思います。

当時のテレビ、夜は必ずプロ野球のナイター中継。ジャイアンツはとても人気でした。

父は熱狂的な巨人ファンで、その中でも長嶋茂雄さんが大好きだったそうです。

「お前は次男やし、好きに名前つけさしてもろたわ!」

父は酒に酔うといつも言っていましたね。

私は自分の名前が好きではなかったですね。

もっとカッコいい名前あったやろ?と思っていたし、もう少し真剣に考えて欲しかった。

自分の名前を好きになるまで、20年くらいかかりましたね(笑)


「保育園時代」

保育園時代.jpg
となりのおバカは私の従妹ですね(笑)

私が3歳になる頃、父と母はうどん屋を開業しました。

休日の昼ごはんは、ほぼ毎回のように鍋焼きうどん。豪華なのですが

いくら美味しくても、週に2回3回食べていると飽きてしまいますよ(笑)

ですが今では、もう二度と食べられない味。

思い出の味。美味しかった。

私の両親は、食にお金をかけるタイプだったので、裕福ではありませんでしたが

キッチリとした食育をしてもらったなと、今では感謝しています。

当時は、オモチャの方が欲しかったですけどね(笑)

自家製だしが美味しかったので、店も繫盛し忙しかったのでしょう。

保育園に迎えに来てくれる時間は日に日に遅くなり、最後のひとりになることも。

さすがに最後のひとりは寂しかったですね。冬場なんて、けっこう暗かったし。

そのころ家庭はというと、父と母は仕事もプライベートも、ほぼ24時間一緒にいるので

そりゃあ、喧嘩も絶えない訳ですよ。

毎日、「今日は喧嘩しやあらへんかったらええのにな」毎日が平和に終わりますように

と願っていました。ちょっと暗いヤツですよね(笑)

なので、サラリーマンの家庭に憧れていましたね。

この頃の夢はサラリーマンになる!でした(笑)

その頃の私は、自分で言うのもなんですが、なかなか素直ないい子でしたね。

本当ですよ(笑)


「小学生時代の髪型はスポーツ刈りしか許されなかった」

父が行きつけの散髪屋に電話を入れ、私に言うわけですよ。「散髪いってこい」

「せっかくのびてきたのになぁ」と思いながら

仕方なく散髪屋に行っては五分刈りみたいにされてしまう。

父はとても厳しく、とても優しい。感情を隠すことなく、わかりやすく、怖いんだけど

愛しい人でしたね。

この頃の夢もサラリーマンになる!でした(笑)

夏休みとか、まとまった休みになると、父の店の手伝いをしました。

お昼のサービス弁当を80個とか作っていたんですよ。

盛り付けを担当していました。

2時間バイトをして500円もらって喜んでいましたね(笑)

バイト代を貯めて、好きなもの買ったり!

保育園時代に引き続き、小学生になっても3年生まではいい子でした(笑)が、


「4年生の時、不登校になりかける」

こんな展開になってしまいましたね(笑)

なぜなのか?

はじまりは、私がうっかり忘れ物をしてしまった。それが何度か続いてしまうと

担任の先生は、私に体罰を与えたのです。

日に日に私の忘れ物も、先生の体罰もエスカレートしていきました。

あんなキレイな往復ビンタくらった事ないですよ(笑)

今だから(笑)ですけど

その先生は忘れ物を1つするたび、漢字の書き取り1ページを課すわけですよ。で、

その日にしなかったら倍!(笑)

互いの意地と意地がぶつかり合い、私に課せられた感じの書き取りページ枚数は

計測不能な数に!(笑)

そうなったら、学校に行きたくならないんですよ。叩かれるのも痛いし。

先生は若く、美人で父もいい印象を持っていたので、そんな事を相談してもお構いなし。

「行け!」ですよ(笑) 仕方なく

「行ってきます」と言って(言うしかない(笑))

しばらく歩いて振り返ると、父はずっと見てるわけですよ。仕方なく学校に行く。

でも、校門の前までたどり着くと

「どうせ今日も叩かれる」

怖くて学校に入れず、学校のまわりをウロチョロしてました(笑)

後に、私の担任となるO先生が、毎日のように学校の周りをさまよう私に気づいては

声をかけてくださり、学校の中でも体罰から救っていただいたりして

なんとか不登校にはなりませんでした。でも、

「どうせ何をやっても褒めてはもらえない」

こんなマインドになっていましたし、もう、大人が怖かった。

でも、嫌なことばかりでもなかったんですよ。


「映画インディージョーンズと剣道に救われる」

当時、金曜ロードショーなどのテレビ番組で映画を見るのが楽しみで

特にインディージョーンズが大好きでした。

考古学の大学教授ですから、頭はいい、でも喧嘩が強く、女性には弱い(笑)

ものすごい秘境に冒険しに行く、という彼に憧れていましたね。

21:00から放送されるので、小学生の私は眠くなり途中で寝てしまうのですが。

当時の私の現実逃避のためのツールでしたね(笑)

その頃に始めた剣道で「めちゃくちゃ褒められる」

これがなければどうなっていたのでしょう?

助かりましたね!僕!(笑)

まずは、誰かの言っている事を聞いてみる。そして実行してみる。

割と素直な性格でしたから。褒められたら嬉しくて、剣士としての腕はメキメキ上達。

「剣道に、自分と戦うということを教えられた」

私が、近いという理由だけで入った道場は全国大会の常連でした。

体が小さい私が、頭ひとつ分も大きな相手に勝つためにはどうすべきか?

いつも考えていました。

答えは単純。いかに竹刀を小さく、速く、強く振り抜くか?

それだけでした。

小学生剣道1.jpg
真ん中のおチビが私


「ひとつの目的を決めて、やり抜く」

今の私の性格が形成されたのは、この頃の経験からなのかもしれません。

この頃、道場での稽古は週3回。

のほかに、京都の強者ばかりが集う稽古が毎週日曜日の夜に開催されていました。

6年生になって、私も日曜日の稽古に参加が許され、かなり嬉しかったのを覚えています。

最初は嬉しかったのですが、当時、ちびまる子ちゃんの放送がスタート。

日曜日の稽古は、盆、正月くらいしか休みはなく、学校での話題についていけない

という悩みもありました。

うち、ビデオデッキがなかったんですよ(笑)

ストイックな家庭でしたね。日曜日の稽古は、とてもキツく

「呼吸困難で死ぬんちゃう?」

と毎回思ってしまうほど、もう「地獄」でした。

日々そんな稽古をしていると、普通の小学生では相手にならないほど強くなっていた。

だから続けられたのでしょうね。

今なら、絶対イヤですけどね(笑)

その甲斐もあり、団体戦の副将として全国大会に出場することができました。

何かひとつの事をやり抜くというのは、他の何かを犠牲にするのかもしれません。でも

得る物もたくさんあるということを剣道から学びました。

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「中学生時代もスポーツ刈り」

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目の前の事、剣道を頑張っていましたが、相変わらずスポーツ刈りしか許してくれない父

2年生の頃かな?お年玉貯金があったので、散髪屋でパーマをあてて帰ったら

父にめちゃくちゃ怒られ、すぐ散髪屋に戻りストパーをあてるなんて事がありました。

さすがに私も交渉して、この時から髪をのばすことのお許しを得ました。

夢のサラサラヘアーですよ(笑)


「中2の冬に運命の出会い」

運命の出会いはエレキギターでした。

最初はぜんぜん弾けなかったけど、すぐに決めました。

「自分はこれで生きていく」

おバカですよね?でもマジですよ(笑) このあたりから

「何をするのか迷うのではなく、先にこうすると決めてから、そのために何をすべきか?」

という考え方になっていました。

それまでは、どこか気弱な性格でしたから。ギターのおかげですね。

「中学卒業したら高校へは行かず東京に行く」

こんな事、マジで言ってましたから(笑)

これにはさすがに、母は「高校にだけは行って欲しい」と泣かれました。

あの日の母の涙が芝居だったとしたら、かなりの女優ですね(笑)

あと、こんな時も剣道だけは頑張って、中学も全国大会出場。ギターに専念するため

剣道は中学で引退。

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中学剣道2.jpg


「高校時代は唯一の暗黒時代」

重いタイトルですよね?

母の説得もあり、高校には入学。だけど、ココロはいつもギターとともにあるというか

カラダは一応、学校には行くんだけどココロはそこにないって感じでしたね。

高校の同級生が「お前はやりたいことがあるって、ハッキリ言えるからええな」

とよく言ってました。

「できそうな事を、できるからやる」

ん?やりたくないことでも?

そういう考えにならないといけない、じゃないと大人になれない。

そういう空気が平成初期の当時は、あったように感じましたね。

「できるからやる、じゃなくて、できないからやるんやろ?」

いつも、目の前のことを真剣に、そう考えていた私には

同級生との、生き方に対しての温度差を感じ、自分は変なヤツなのか?と思ったり、

さみしい思いをよくしていました。

このくらいの時はみんな思うのかな?

こう生きたいと思っていることがあるのに、

学校には行かないといけないとか、いつも手錠をはめられているような感覚。

家に帰ると直ぐにギターを弾いていました。学校以外のバンド仲間は順調に増えていき、

ギターが全て。いろんな高校の楽器上手いヤツらと知り合い、そこそこ楽しんではいたけど、

やっぱりガチで、音楽のためだけに生きられない。

いつも悶々と、ヤリきれない思いがありました。

でも、剣道から学んだ「ひとつの目的を決めてやり抜く」これを自然とやっていると、

ギターもかなり上手くなり、高校生ではなく大学生とバンドを組んだりしていました。

ほんとにギター三昧の日々。

高校中退しそうですよね?

なんとか卒業(笑)

自分だけの力ではなく、先生や同級生にたくさん助けられた。

みなさんのおかげで卒業できました。

みんなありがとう!感謝しています!

暗黒時代ではなくなりました(笑)

「とんでもない世界に足を踏み込んでしまった」

ここからバンドマンとしての人生がはじまりました。

高校時代から大学生や社会人、たくさんの人達とバンドは組んでいましたが、

「ひとつのバンドに人生を賭けたい」

こう思っていた頃に、友達の紹介で加藤くんという4つ歳上のギタリストと出会う。

「ライブ観に来てくれよ」

と言ってくれたので、観にいきました。

加藤くんのバンドメンバーも4つ歳上で、男前のベーシストと、歌が上手くて、さらに

声が胸に、ココロに突き刺さってくるボーカル。

「いいじゃない!」 

インディーズバンドのほとんどは、実は歌えるボーカルはいないのです。

だいたい下手くそなのです。

でも、ボクに突き刺さったのは加藤くんのギターでした。

弾けるのは当然として、個性的で、感情を音に込めてぶつけてこられてるような、

立派な「表現者」がそこにいました。

「このバンドに入れてもらえないかな?」 

そう思い、その後も仲良くさせてもらいながら「誘ってくれよ」と思っていました。

素直に、自分から言えばいいのに(笑) 当時はシャイだったんですよね。

こういう経験もあり、話したい人には自分から話しかけられる人間になっていきました。

人見知りとかしてる時間がもったいないなと。

それから、なんだかんだで誘ってもらってバンドに加入(笑)

道はひらけた!


「存在感がない」

このバンドに加入してから1年半ぐらい言われ続けた言葉です。

大げさに言うと、同じステージに立って一緒に演奏しているのに、そこに居ないような。

私は、絶対に必要とされているメンバーではないんだなと感じていました。

辛かったですね(笑)

私の秘めた将来性を見抜いて誘ってくれたそうなのですが、

全く、誰の期待にも応えられていない。それはハッキリと感じましたね。

私と加藤くんでは、それほどレベルの違いがありました。

ギターが上手いだけでは、通用しないのです。高校生のレベルではなく、

「表現者」でないと。

高校生のように時間を持て余し、ただ同然のチケットでライブに来てくれるのではなく、

毎日忙しく、職業をお持ちの若い女性ファンが遠方から

わざわざ時間を作ってライブ会場まで足を運んでくれるのです。

このバンドを絶対に観たいと思わないと、来てくれないのです。

当時の私を観に来てくれたとしても、誰も喜ばせることはできなかったのです。

むしろ、ストレスになったのでは?と思います。

「今までの人生で1番悩んだのはいつ?」と質問されたとしたら、この頃です。

めちゃくちゃ悩みました(笑)

でも「やり抜く」と決めたことだから、考え抜きました。

自分が欲しいもの、自分に必要なもの、自分が元々持っていたもの、個性とは何だ?と

「欲しがらなくても元々もっているのでは?」

「人は誰かと関わり生きていて、その経験、生き様こそ個性と呼べるのではないか?」と

「短い人生だけど、僕の生き様をギターに乗せられないかな?」と考えると、迷いなく

音が出せるようになりました。カッコつけるのではなく、考えた上でのありのままを。

そうする事で道は開け、インディーズバンドのなかで中位ぐらいのバンドマンには

なれたのです。

ただ、上には上がいて「表現者」のなかでは、個性らしい個性はないのだなと、痛感。

痛感しても、それでも折れずに戦おうと思える自分の事が好きになっていきました。

自分で自分を応援してあげるしかないというか「無個性」って逆に個性的なんちゃう?と。

この頃、自然と自分の名前を好きになっていました。

好きではなかった自分の名前を。

「茂雄って」って思ってましたもん(笑)

親父バカヤローって(笑)

やっぱり、本気でバンドをやっていたから「孤高の天才」みたいになりたかった。

でも、人の弱さ、弱点という際立った部分は、まだ出会っていない誰かにとっては

強さにもなるのではないか?弱さの対極にある強さに。

「無個性」という個性を、その活かし方次第で誰かを喜ばせる。

揺るぎない覚悟を持った時、自分でもびっくりするほど、

たくさんの方に応援してもらってるんだなと実感することができたのです。

嬉しかったですね。

自分自身のいい変化を実感し始めた頃に別れが訪れました。

加藤くんのバンドに加入して3年近く経っていました。

加藤くんは、25歳までに納得できる結果が出ていなければ

バンドを辞めると決めていたのです。

非常に残念でしたが、サラリーマンになる彼を心から応援し、送りだしました。

音楽の世界で、しっかりとした考えを持ち、個性的だった加藤くんの現在はというと、

IT関係の上場企業で執行役員をしています。

いろいろな商品を開発し、世の中を便利に、人の心を豊かにしているのです。

ヤル奴は何してもヤルんやなと。あの時、無理に引き止めなくてよかったなと(笑)

彼は、私が会社を設立する時にいろいろ相談に乗ってくれました。

100年続く企業とは?

そんな質問をされて、何となく自分の思っている事を答えたら、

お前は間違ってないと言ってくれました。

忙しい中、時間をつくってくれて、彼には感謝しています。

またいつか、どういうカタチなのか、それはわからないけど、

彼と一緒に頑張れることがあれば嬉しいなと思います。

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右の彼が2022年の加藤くん


「プロ意識を叩き込んでくれた、真野くんと出会う」

加藤くんが辞める半年ほど前、真野くんがバンドに加入していました。

インディーズの某トップバンドを脱退し、時間があったということで

バンドに加入してくれた個性的なベーシストでした。

その後、僕と真野くんは引き続き一緒にバンドをやろうとメンバーを探し、

5人編成のバンドを結成。

この時、私は21歳、真野くん25歳、他の3人のメンバーは19歳。

3人のメンバーは19歳と若く、凄い才能を秘めていました。

若いメンバーを私と真野くんが引っ張るという図式。

私なりに全力で考え、やり抜いていたのですが、真野くんは、もう(笑)

もっと考えていて、何故ここでこのフレーズを弾くのか、どういう理由があるのか?

何のために弾くのか?それにより、オーディエンスにどう聴かせたいのか?

そのためにはどうするのか?もっと深く、時には柔軟に考えアドバイスしてくれました。

ボクに足りない意識をすべて持っているような人でした。

「プロ意識」ですね。

僕は、まだまだやり込めていない自分のことが恥ずかしくなりました。

毎回(笑)もう必死ですよ(笑) でも、

自分でやると決めた事だから、恥ずかしかろうが前に出ていくしかないのです。

練習の後は、毎回のように真野くんと夜の街へ。酒を飲み、夢を語りましたね。

そんな私たちを、たくさんの方が期待の目で見てくれていると感じていました。

期待に応え続けるしかない。いつのまにか私にも

「プロ意識」が芽生えていました。


「困難に立ち向かい続けていたら、突如、覚醒する。」

よく考え、よく練習するバンドだったからなのか、このバンドは結果がすぐに表れます。

すぐにファンも獲得していき、大きなイベントなどにもひっぱりだこに。

特に業界関係者からの評価が高く、結成1年足らずでメジャーデビューのお話を

いくつかいただきました。

その時に、そのメンバーが集まり、その時にしか出せない音だったのでしょう。

もっと実力をつけて、もっといい曲つくって、もっといい契約でメジャーデビューできる、

そう考えた私たちは、デビューのお話をすべてお断りし、自分たちだけの道を模索。

自分自身がどこまで伸びるのか?

このバンドなら、どこまでも行けると思っていたし、

私たちのバンド、自分への期待値、未来はいい意味で未知数でした。

自分の弱さを受け止め、強さに変えられた。好きではなかった自分も好きになれた。

やり抜かなければ知れなかった自分を発見してしまった。

「覚醒」

ですよ(笑)

自分たちは、どこまでも行ける。

そう思っていました。

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大好きだったバンドメンバー


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私です(笑)


「止まれない下り坂をゆっくりと転がりはじめる」

バンドが最高の状態にあり、どんな未来が待っているのか?と思っていた矢先

メンバーのひとりが、学業に専念したいとバンドからの脱退を口にする。

マジで!と思い、引き止めましたが彼の決意はかたく、バンドを脱退。

1番「プロ意識」が低いと思っていたメンバーだったので、

まぁ4人でも、あんまり変わらんやろ?大丈夫やろ?と思っていました。

そこからバンドは、ゆっくりと下降線を辿り出しました。

その時、そのメンバーが集まり、その時にしか出せない音だったのです。

当時は必死すぎて、その事を理解できなかったのです。

したくなかったのかな?

「期待に応えたい」そればかり考えていたから、視野が極端に狭くなっていました。

脱退したメンバーの気持ちの変化に気づいてあげられなかった。

もう少し、活動のペースを落とすことはできなかったのか?

歯科医師とアーティストを両立している

グリーンのような活動の仕方はできなかったのか?

若く、視野の狭い、当時の私には走り続ける事しかできなかった。

大失敗ですよ。

それでもバンドは走り続けるのですが、ライブの動員数はというと、

満員→100人→50人→30人→20人→10人くらい

と、ゆっくりと下り坂を転がり、どうしようもない状況になりました。

その間にメンバーが1人辞め、また1人辞め、メンバーチェンジを繰り返し

結成当時のメンバーは、私と真野くんだけになっていました。

高校卒業後、本格的にバンド活動を始めて、6年程の時間が経っていました。

四六時中、バンドの事だけを考え、休みらしい休みもなく、走り続けてきました。

気づかなかったんです。

自分の心が擦り切れていっていることに。

バンド時代2.jpg
擦り切れて元気がなくなっているころ  夜なのにサングラスって(笑)


それでも、私たち主催のイベントでライブハウスを満員にした実績を忘れられず

そこから1年ほど活動します。


「もう駄目だ」

その間に宇多田ヒカルさんがデビューします。

「めっちゃええやん」とバンドでツアーを回っている時に、よく聴きました。

最初はそんな感じでした。 でも、

聴けば聴くほど「これは作れんぞ」と(笑)

「もう駄目だ」

私は、音楽業界に必要ないな(笑)

笑ってしまうほどの才能の違いを感じてしまいました。

その頃、バンドも解散の話がチラホラ出始めていました。

それでも、最後のメジャーデビューのチャンスが訪れる。

当時、人気絶頂の男性2人組バンドのボーカルが、新バンドを結成するときに

私たちのバンドごと来てくれよ、というお誘いをいただきました。

しかし、くわしく話を聞いた後、

すぐ断る(笑)

断らなければ、Мステに出て、タモリさんとお話できたかもしれませんが(笑)

「バックバンドみたいなん嫌やな」という理由で。

それでもバンドを続けようと思っていたのですが。

今だからそう思えるんですが、

その頃の私は、本当はもうエナジーが尽きていたんです。

ずっとバンドの事だけを考えて、休まず走ってきたから。

バンドマンって、だいたい22歳とか25歳で辞めるんですよ。

同級生が大学を卒業するタイミングだとか。

25歳なら、真っ当に仕事をして給料をもらっているわけで。

別に、それがうらやましいって訳じゃなかったのですが、

なんだかなぁと。

そういう理由だけではなかったのですが、1回休んでみようかなと。

疲れた。

とにかく疲れた。

何も考えたくない。

結局バンドは解散。24歳の頃。

真野くんは、それでも他のバンドに入って活動を続ける。

彼の技術とアイデア、精神力にはリスペクトしかありません。

きっと、音楽の道で頑張っているでしょう。

たまに、私に「プロ意識」を、大切なことを教えてくれた彼のことを思い出しては

感謝の気持ちでいっぱいになったりしています。


「ニート時代」

ここで、すぐには大工になりません(笑)

バンド解散後、休んでいる1年ほどの間に、東京に来ないか?という

お誘いをたくさんの業界関係者の方から電話をいただいたりしました。

エナジー切れの私は、程々に断っていました。

そんな元気がなかったのです。

だからといって、他にやりたい事があるわけでもない。

だって、中2の頃からギターで生きていくと、

それしか考えてなかったから。

他の生き方がわからなかった。

ちょっとバイトしては辞めを繰り返しながら、これからどうしよう?と考えるほどの

エナジーも残っていませんでした。

ほんと、どうしようもない奴でしたね(笑)

1年半ほどは、こんな感じでしたね。

その頃、朝まで酒を飲んで、電車で帰る時にサラリーマンが出勤するわけですよ。

その姿を見て、毎日行かなければならない場所がある。

その人がいなければ会社が困る。

私には、行かなければならない場所はない。

そんな人たちが、うらやましいなと思いましたね。

期待されてるんだなと。サラリーマンはかっこいいなと(笑)

母にも心配かけてるし、1回まじめに働いてみようかな?

就職前 悩んでいた頃.jpg
母に心配をかけていた頃。    顔に生きるパワーがない(笑)


何の仕事しようかな?

考えましたね。

考えすぎて、嫌になるほど考えて、考えるのが嫌になって(笑)

とりあえず、カラダ動かそうかなと(笑)

クタクタになるまでカラダ使って家に帰ったら、メシも美味いだろう?

疲れてるだろうから、お風呂入ってすぐ寝るだろうし、嫌なことも考えないだろうと。

建築系?

なら大工が1番カッコいいんじゃない?

そんな安易な考えから大工職人の道に入りました。


「建設業の大恩人は身近にいた」

2002年山栄工務店に就職

社長は私と同じ中学で2つ先輩の山岡さんでした。

真面目な方ではなかったはずなのに(笑)

でも、大工としての腕も良いから、たくさんの建設会社から引っ張りだこで、

素直にカッコいいと思える、当時の私からすれば立派な大人でした。

こんな大人やったら、なってもええかなと思わせてくれた人でした。

「お前は、俺がマンツーマンで仕事教えたるからな!」

面接の時に、そう言っていただいたので、いつからなんやろな?と思っていたのですが、

ぜんぜん教えてくれない(笑)

山岡社長は、たくさんの現場を任されていて、若手で人気の大工棟梁。

仕事中も、ひっきりなしに電話が鳴り、それでも関係なく完成させなければならず。

そりゃ、私にかまっているヒマないですよね。

私が、それにさみしい思いをしていた頃、兄弟子が突然退社。

私が入社後、3ヵ月くらいの時でした。

何もできない私と山岡社長の2人だけで、たくさんの現場を完成させられる訳もなく。

山岡社長が修行時代に勤められていた工務店の方や、大工をしている同級生が

たくさんおられたので、その方々に助けていただき

いつも、なんとかなったという状態でしたね。

その中には、私の同級生のⅯ君もいました。

彼は、中卒で大工の世界に入っていたので、一通りの仕事がキッチリできるのです。

夜も、酒を飲みに行っておごってくれたり。

当時、私と彼は26歳だったかな?

私は大工の修行に入ったばかりで、役立たずだったんですよ。

給料もぜんぜん違うし。

Ⅿ君は、優しいから僕にお金は出させない。ホントになかったけど(笑)

でも、同級生の優しさが痛かった(笑)情けないなと。

その恥ずかしい思いをバネに頑張れたから、早く独立開業できたのかもしれません。

この頃の私のポケットには500円くらいしか入ってなかったですから。

仕事で何か、建て替えて支払う。そんなこともできないくらい(笑)

私は、助けに来てくださった大工さん方に仕事を教えてはいただくのですが、

ちゃんと誰かに仕事を教わらんとヤバいな、と思っていました。

たくさんの大工さんに仕事を教えていただいた中で、この人や!という人ができました。

山岡社長の同級生で、瀧谷さん(以下タキくん)という大工さんでした。

この方も私と同じ中学の2つ先輩で、真面目な方ではなかったのですが(笑)

山栄 社長と滝君.jpg
なぜか中央にいる私    私の→の方が山岡社長     私の←の方がタキくん


 

タキくんは、インテリジェンスが高く、人を使うのが上手い。大きな現場で、

たくさんの職人を使えるタイプの大工さん。なかなか希少なタイプの大工さんでした。

そんな方なので、仕事もめちゃくちゃ速いんですよ!

この人に仕事を教えてほしいから、山岡社長にお願いしました。

「できるだけ、タキくんと仕事に行かせてください!」

と言うと、最初は渋ってたんですけど、めずらしくアツい思いを語る私を

アホやと思ったんですかね?(笑) 渋々オッケーをいただきました。

タキくんには、半年ほどだったかな?

山岡社長にしていただけなかった「夢のマンツーマン指導」ですよ(笑)

仕事の基本をみっちり叩き込んでいただきました。

毎日、この作業「お前やったら、どう進める?」と問われ、

私は答えるんですが、だいたい間違い(笑)

毎日、毎日ですよ。

でも私には、それまでの人生で身につけてきた、

「やると決めたことはやり抜く」

「プロ意識」

がありました。

だから、仕事を覚えるのは早かったんですね。

タキくんに、毎日、毎日「どうすんねん?」と(笑)

その答えを私が間違えなくなり、タキくんの目線に近づくことができた頃、

「あとは自分で考えれるやろ?」と言われ、卒業。

この頃の私は、タキくんのマンツーマン指導のおかげで、

仕事のクオリティも上がっていき、何より

仕事のスピードが速い大工職人になっていました。

タキくんには技術だけでなく、仕事のインテリジェンスを授けていただきました。

山栄バンジー.jpg
山栄工務店の旅行でバンジージャンプしてる私。精神修行でもしていたのでしょうか?

私が山栄工務店に入社後、3ヵ月で兄弟子が辞め、内弟子は私ひとりでした。

ということは、山栄工務店のナンバー2。職人のアタマだったんですよ。

アタマ=ヘッド(暴走族の)みたいな(笑)

ぜんぜん仕事もできないのに(笑)

山岡社長は、仕事には恵まれて忙しいけど、社員には恵まれないというか。

私も、仕事を覚えるという当たり前の事だけでは満足できなっかたので、

「俺がナンバー2になって会社デカくしたろか!」という目標をたてました。

勝手に(笑) タキくんに指導を受け始めた頃でした。

自分自身の成長と、山栄工務店の成長をどちらも重ね合わせ

全力で仕事に向き合いました。

俺が看板や!と勝手に思い込み、自分で自分を追い込んで

精神的にはかなり苦しかったのですが、本当に充実した日々でした!

思い込みも大切ですよ(笑) 俺が看板って(笑)

そこから山栄工務店は社員に恵まれ、ぐんぐん成長していきます。

私の半年後に1人。そこからは半年ごとに1人、いきなり2人入ってきたりと。

さらに、いつも助けてくださっていた大工さんが5人ほど。

毎日10人以上の職人を動かしている工務店って限られていましたから。

私の後から入ってきた社員の中には経験者もいるわけですよ。

私よりも経験年数の長いヤツもいましたね。

それでも工務店のアタマという立場が、みんなに負けられないと思う気持ちと、

みんなを引っ張っていくんだという自覚を持たせてくれましたね。

後輩の悩みを聞いたり、相談に乗ったりして調子に乗ってたな~と、若かったな~と。

1人暮らしの後輩が、仕事の事などで悩んでいたら声をかけ、晩飯食って帰ろうか?と

ラーメン屋でまずビール。そして一品を一通り食べて、またビール飲んで。

締めに、やっとラーメン食べて、酔っぱらってるからタクシーで帰る(笑)

そこで、また先輩風ふかしてしまうんですよ(笑)

調子に乗っておごって(笑)

ラーメン屋で2人で20000円払ったり(笑)

普通は2000円ですよね?

そんなことしてるから、給料日には500円くらいしか残ってませんでしたね(笑)

でも、楽しかったな。

いい思い出です。

山栄工務店は忙しかったから、同じ修行年数でも普通の大工さんの3倍は経験値が

手に入ったんじゃないですかね? 私は本当に運がいいと思います。

自分自身の職人としての挑戦。

会社を大きくしてやるという目標。

後輩たちとの楽しい思い出。

たくさんの大工さんから、仕事も遊びも指導していただいだ事。

最後に、山岡社長には大工仕事はあまり教わっていませんが、遊び方を(笑)

いや、男としての生き方を。に訂正します(笑)

山岡社長は「お前ら何のために働いてんのや?」

「働いた金で遊ぶためや!」

「おまえら全員、遊ぶために働けや!」

と言ってましたね(笑)

タキくんも同じこと言っていました(笑)

毎月、給料日には500円くらいしか残ってなかった私は、合格でしょう(笑)

アホやな~(笑)と思っていてのですが、こういう指導がなければ

遊び心なのかな?

私は会社を作るというマインドにはなっていなかったかもしれないですね。

お金はなかったけど「お金で買えない財産」をたくさん手にした修行時代でした。

みなさん、本当にありがとうございました!

山栄 集合.jpg


「大工として独立を考えてしまう」

毎日が本当に楽しくて、充実していて、山栄工務店も大きくなって。でも、ある日

「お前はどうなんや?」と自分自身に問いかけてしまったのです。

すごく好きな会社で働く事ができて、楽しい後輩たちもいる。幸せでしたし、

ずっとここで働きたいな~と思っていたのですが、

山栄工務店のアタマの井上 茂雄でしかないと思ってしまったのです。

所属、肩書がなくなった、ただの井上 茂雄ってどんな男なんやろ?と

たいしたことない男やなと(笑)

このまま、いい環境にいたら私はもう成長しない。と思ってしまったのです。

もっと、今まで知れなかった自分を知れるのではないか?

そんな事、半年くらい考えてたのかな?

悩んだ末、山岡社長に電話しました。手を震わせながら(笑)

「社長!真剣なお話があります。お時間いただけないでしょうか?」

こんなセリフだったと思います(笑)

すると、山岡社長は「お、おぅ。わかった。また電話するわ」

来たか、みたいな(笑) でも待ってたで、というふうにも感じました。

山栄工務店は遊びが大好きでした(笑)

月に1回~2回は必ず全員で晩御飯を食べたし、夏は海へ、冬は温泉へ、

たまに、海外旅行にも行きました。

大事な話だから、晩御飯のついでに口にしたりする事ではないと思ったのです。

それから

山岡社長から「2人で飯食おう」と言っていただいたのは4ヵ月後くらいでした。

遅いですよね(笑)

互いの心の準備期間だったのでしょう。

山岡社長と2人だけで晩御飯というのは珍しいことなので、互いに緊張していました。

でも、私がお願いした事なので、そのままの思いをお伝えしました。

「このまま、この環境にいたら自分は成長できません。独立したいと思います」と

すると山岡社長は、すこし間が空き

「さみしいわ」

また間が空き

「でも嬉しいわ」と

「そういう気持ちにお前がなれたっていうのが嬉しいねん!」

「これから、ええ時もあるやろけど、どないもならへん、しんどい時があんねん!」

「でも絶対あきらめんと続けろ!」

「絶対ええ時がくるから!」

「な!」

珍しく感極まった感じで、短い言葉なのですが、とても重い言葉を。

言葉というより気持ちをぶつけてくれた、胸に響く言葉でした。

その後、互いに何を話せばいいのか、わからなかったんでしょうね。

晩御飯中は、あまり盛り上がらず(笑)

でも、この時はじめて山岡社長に男として認めてもらえたような気がしました。

私の方から会社を辞めることを認めてくださいと言っているのに、

自分で言っているのに

自分が、何処かさみしい。

身の引き締まる思い。

この日のことは忘れないですね。

その後、半年ほどで山栄工務店を退社。

毎日、真剣に仕事して、遊んで、あっという間の4年半でした。

山栄 海.jpg


「総合建築イノケン」

を設立したのは、2006年9月。私は30歳になっていました。

山栄工務店を退社する時にいただいた車、SUZUKIのエブリー。

山栄工務店に勤めている頃から、少しずつ買いそろえていった大工道具。

と、情熱(笑)

私の財産はこれだけでした。

自分の腕一本で勝負する!ドキドキしていました。

しかし、いきなり困難な状態になってしまいます。

構造計算書偽造問題、いわゆる「姉歯事件」が起きてから

2007年6月に建築基準法が改正され、家を建てるまでの時間が余計にかかったり

何より、建設業界への不信感からなのか、住宅を購入すること自体に二の足を踏んでしまう方が

増加するという事態になってしまいました。

長いキャリアを持つ大工さんですら、仕事がない時がありました。

駆け出しの私に、仕事などあるはずもなく

週に1回か2回しか仕事がない時がありました。

山岡社長に言われた事が、すぐに現実となってしまいました。

どうしようもありませんでしたね。

もっと働きたいから独立したのに、働く場所がない。

歯痒い思いをしていました。

当時の私は一人暮らしをしていて、仕事が不安定だったので

来月は仕事あるんかな?という不安からチキンラーメンばかり食べていましたね(笑)

当時、ひとつ40円ほどだったので、なんとか生き延びる(笑)

あとは、琵琶湖に週4くらい通っていました。ブラックバス釣りです。

仕事がなく、家にばかり居たらおかしくなってしまうと思ったのです。

仕事ではなく、釣りの腕ばかり上がっていく(笑)

それでも、遊び心がなくなってしまえば、いざ仕事となった時に良い仕事ができない。

そう、自分に言い聞かせて(笑)

そうでもしないとメンタルを保てなかったですね。

釣りの時も、お腹が減ったらチキンラーメンをそのままボリボリ食べていましたよ(笑)

それでも、忙しい大工さんもおられたので、その方たちに1日18000円で

仕事をさせていただいて食つないでいました。

営業も下手だったのでしょう。

それでも、自分でやると決めたことなので、やり抜きます。

キャリアを重ねるのと比例して、得意先の建設会社が一つ二つと増えていきました。

34歳になっていた私は、いい結果が出だし、やっと俺の出番が回って来たで!

さぁ、ここからや!と思っていた矢先に


「仕事中に大怪我をしてしまう」

住宅の骨組みに使用する、柱や梁といった構造材を加工中に

左手薬指を切断してしまう。

その頃、たくさんの仕事に恵まれはじめていた私は、仕事が楽しかったのです。

その充実感からなのか、私は大工として、もっともっと成長したいと思っていました。

この動作が無駄なのでは?

もっと効率的にできないか?

今までの自分の頭の中を作り変えられるのでは?

考えに考え、さらなる仕事のスピードアップを。

スピードアップできた分、仕事の精度を上げていける。

もっと誰かに喜んでもらえる。

本当に仕事が楽しくて

夢中になって

俺はまだまだ成長できる!

そんな

頑張れば頑張るほど成長していく自分に酔っていたのでしょう。

その時、28歳の頃から付き合っていた妻との結婚を前提に、同棲を始めてすぐの頃でした。

救急車で病院まで運ばれている間も

彼女になんて言えばいいのか?

考えても考えても、答えはでませんでした。

彼女にも、私の両親にも連絡せず手術を受けました。

手術中も、6時間くらいだったかな?

その間もずっと、彼女になんて言えばいいのか?と考えていました。

手術が終わると、彼女と私の両親が待ってくれていました。

私に工事を発注してくれた会社の方が、方々、連絡を取り

私の両親の連絡先までたどり着いた、といった感じだったようです。

私は、誰にも言わずに手術を受けて

彼女になんて言えばいいのか?

答えは出ていませんでした。

「ごめん」

声にならない声で

こんな言葉しか思いつきませんでした。

彼女の顔をまともに見ることもできませんでした。

その夜は、ずっと考えていたから眠れませんでした。

「これからどうしよう?」

こんな怪我をしてしまって

工事を発注してくれた会社にも

工程とか、労災をつかうとか、いろいろ迷惑をかけてしまって

そんな大工を誰が使いたがるのか?

自分は必要とされないのではないか?

嫌なイメージばかりが頭をよぎる夜。

長距離トラックの運ちゃんにでもなろうかな?

あまり人と会わないだろうし

会いたくないし。

そんな事ばかり考えていました。

次の日、私が彼女に言った言葉は

「結婚のことは考え直してくれたらええし」

自信がないから、こんな事を口にしてしまう。

彼女は

「それとこれとは関係ないんちゃう?」

と言ってくれました。

本当にありがたい言葉なのですが

その言葉を受けとめる度量はありませんでした。

俺と結婚しても迷惑かかるんちゃうかな?

当時の私からは、そんな考えしか出てきませんでした。

それからも彼女は毎日、毎日、仕事終わりに病院に来てくれました。

私も、少しづつですが話す言葉も増えていき、精神的に回復していきました。

「それでも私を助けてくれる人たちがいる」

そんな時、怪我を負ってから5、6日くらいだったかな?

年に2棟くらい新築工事の仕事を発注していただいていた

有限会社 吉岡工務店の社長が見舞いに来てくださいました。

こういう話は回るもの。

私が怪我を負った材木店の方から聞いて、ということでした。

吉岡社長は「めちゃくちゃ忙しいんや」

「来月、新築1棟できひんか?」

包帯ぐるぐる巻きの私に言ってくださいました。

私は、精神的に回復してきていたとはいえ、大工を続ける自信もなかったので

「また」

「仕事できるようになるのか」

「仕事してもいいのか」

「わかりません」

声にならない声で答えました。

恥ずかしいというよりは、もう誰にも迷惑をかけたくないと思っていました。

「アホか!お前は!」

「これぐらいの怪我で辞めんな!」

と、大きな声で言ってくださいました。

「いや、でも」 と

私は答えたのですが、元大工職人だった吉岡社長は自身の手を私に見せ

「俺も、ここと、ここ、指なくなりかけたんや」

大きな縫い傷を見せてくださいました。

「こんなことぐらいで辞めたらアカンぞ」

「行けるな!」

「な!」

という言葉に、私も胸がアツくなり

「やらせてもらえるなら」

「やれるだけ」

「やってみてもいいですか?」

と答えると

「よっしゃ!」 と

吉岡社長は答え、微笑んでいただきました。

まだ、必要としてもらえるのか?

また、仕事してもいいの?

ホンマにええんかな?

と思いながらも、前を向いて進むしかない状況にしていただきました。

後に気づくのですが、めちゃくちゃ忙しいからというのは

嘘でしたね(笑)

その頃は、いつでも大工さんを手配できる時期だったのです。

吉岡社長の優しすぎる嘘でした。

その日の夜、そうは言ったものの、本当は

まだ、半信半疑でした。

ホンマに、まだ大工を続けられるのか?

続けてもいいのか?

また、いろいろ考えてしまうのですが

その後も大工さんや、たまに通っていた針治療の先生など

たくさんの方が見舞いに来てくださいました。

怪我をした事、自分から誰にも言っていないのにですよ。

中でも、食べきれない程のケーキを買ってきてくれた、普段は口数の少ない先輩大工が

喋る喋る(笑)

本当に勇気づけていただきました。

もう1回、大工の世界に戻ろうと。

ダメなら、その時はその時やと。

「いいことも、悪いことも、全部ひっくるめて自分の才覚なのではないか」

少しずつ前向きに、物事を考えられるようになっていきました。

そう思えるようになった私が、ものすごく忙しくなるまでは、もうしばらくかかりますが。


「プロポーズ」

退院後、吉岡社長にこう言われます。

「仕事の厄ってあるんや」

「厄祓い行ってこいや」

なるほどなと思った私は素直に受け入れ、神社に行こうかなと。

神社といえば伊勢神宮だよな?と(笑)

彼女と小旅行に向かいます。

2人でお祓いを受けた、その帰り道を歩いている時に

「もう、結婚するってことでええやんな?」

と言ってくれたのです。

まだ仕事復帰もしていない私は、全く自信はありませんでした。

でも、結婚するならこの人、したいのはこの人だけ

「お、おう」

ホンマにええのか?と思い、こんな言葉しか返せませんでしたが

2011年9月に入籍しました。

私が35歳、妻が30歳になった頃です。

翌年の5月に松尾大社で結婚式を挙げる。

結婚式.jpg
新婚旅行は、車で九州を一周しましたね。

いい思い出です。

私が引退したら、妻を日本一周旅行に連れていってあげたいなと思っています。

仕事に復帰し、結婚もした。

やってやるという決意はあるのですが、仕事はまだ不安定でした。

本当の所はわからないのですが、大きな怪我をするような大工、使いづらいのかな?

そんな風に感じてしまう時もありました。

でも、私も結婚したのでそんな事も言ってられない。

そんな時、仕事が暇な時あったら連絡してくれよと言っていただいていた

クレーン会社の社長に、ダメもとで電話してみました。

「たまに仕事が切れる時があるんで、忙しい会社があったら紹介してもらえませんか?」

と言うと「すぐに折り返すわ」と。

本当に5分ぐらいで折り返しの電話がありました。

「ちゃんと話しておいたから、ここの金原さんっていう人に電話してみ」

「頑張りや!」短い電話でした。忙しかったのかな?(笑)

早速、金原さんに電話すると、とりあえず会ってみたいと言われたので

2、3日後にお会いする事になりました。

もう、この会社で大工として期待される存在になれなかったら辞めようかな?

転職も考えていました。

妻と2人、生きていければ。

怪我を負ってから、まだまだ前向きなメンタルは戻っていませんでした。

金原さんがお勤めの会社は、年間40棟ほどの新築住宅を販売し

自社で施工もおこなっている会社でした。

その会社を取り仕切っていたのが金原さんでした。

私がそれまで取引していた会社よりも大きな会社だったので

少し緊張しながらも、その会社に行きました。

軽い挨拶をすませた後、金原さんは、じ~っと私の顔を見て

「今まで何処にいたん?」

「なんで今まで会わへんかったんやろ?」

「もっと早く会いたかったわ!」と言われ、さらに

「来月空いてる?」

「すぐに仕事してほしいんやけど」と、あまりのスピード感にびっくりしたのですが

「行けます!よろしくお願いします!」と、気づけば答えていました。

この人に頼まれたら断れない、そんな不思議な空気を持っている方でした(笑)

でも、期待してもらえるという事が嬉しかった。

この人なら私を上手く使ってくれると、直感でそう感じました。

その日のうちに図面を渡されて、「頼んだで!」と(笑)

はじめて会って図面まで持って帰ったのは、後にも先にもこの時だけです(笑)

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35歳 最強に太っている頃(笑)  ここからダイエットとリバウンドをくりかえし現在は?

「大工として絶頂期をむかえる」

金原さんから発注していただいた仕事を着工して一週間後くらいに

金原さんから電話がありました。

「来月、2棟いける?」

えっ(笑)

「まだ、僕の仕事見てもらってませんよね?」

そりゃあ、どんな仕事をする大工なのか見極めないと次の仕事は発注しませんよ

普通は(笑)

「自分は大丈夫やろ!」

「いってくれるやろ?」

そう言うわけですよ(笑)

彼は不思議な空気を持っているので(笑)

私もどうにかしたくなる訳ですよ(笑)

正直、他の会社から仕事も入っていたのですが

「ここでいかへんかったら、もう、チャンス来ることないんちゃう?」

直感で、そう思ったのです。

そこからは、いつも2,3棟の現場を請け負っていましたね。

私だけで出来るはずもなく、今までに知り合った大工さんに電話をかけまくり

助けていただきながら、なんとか完成させる日々。

でも、クオリティは落としたくない。そうなると日曜日も現場に行っては

音の出ない仕事をしたり、音の小さい電動工具を買ったり(笑)

4ヵ月くらい休みがない時もありました。

それでも、私に期待してくれる人がいる。

それが嬉しかったのです。

たくさんの仕事を受注し、毎日を忙しく過ごしていた

そんな頃、我が総合建築イノケンに吉田くんという大工が入ってくれました。

彼は、私が山栄工務店に勤めていた頃の後輩で私が独立開業後に山栄工務店を退社。

その後は、何社かの工務店を渡り歩いていたのです。

私は「吉田、元気にしてんのかな?」と思い、久しぶりに電話してみたら

彼はその時勤めていた工務店を辞めようか悩んでいたので

「じゃあ、ウチきてくれよ」

「昔みたいにワイワイやろうな」

こんな感じで誘ってみたら、快諾してくれたという経緯でした。

2人体制になった総合建築イノケンは、ここから沢山の仕事をこなしていきます。

少なくとも、年間20棟の新築住宅を完成させていきました。

総合建築イノケンに頼んだら何とかしてくれる。

私の得意先の建設会社の方々は、そう思っていたそうです(笑)

忙しすぎて、たまらなかったのでしょう。

吉田くんとは、よく喧嘩をしました(笑)

彼は、総合建築イノケンに11年間という長い間、勤めてくれました。

その間に15回は喧嘩しましたね(笑)

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右の彼が吉田くん


お互い本音を語り合える、そんな関係だったからだと思います。

彼の家族以外で、1番彼がどういう人間なのかを知っていると自負しています。

そんな、弟のような存在だったから私も本音でぶつかり喧嘩をしたのでしょう(笑)

吉田くんは、2022年7月に独立開業し、引き続き大工を続けています。

私が会社を設立し、その事務所の工事を手伝ってくれたり

今も私を助けてくれる、頼りになる男です。

彼の頑張りを、これからも応援したいと思っています。


「妻が妊娠する」

少し時間を戻しますが、2013年妻が妊娠しました。

私たちには子供ができないのかな?と思っている頃でした。

ビックリが最初にきて、徐々にに嬉しさに変わっていきました。

しかし2か月後、着床した位置がかなり下の方だという事がわかり

流産の可能性がある言われ、妻も私も不安な気持ちになっていきます。

ショックでしたね。

私自身、不安だったのに妻の気持ちを何とか明るくしてあげたいな。

そんな事ばかり考えていましたね。

妊婦健診のたびにドキドキしては安堵する、これを繰り返していました。

人って、簡単に産まれてくるんじゃないんだな

命って凄いんやな

この世に出てくるだけで、それだけで凄いんやな

その時、初めてそう思いました。

命について、とても考えた、すごく長く感じた時を経て

2014年4月、長女が誕生!私が38歳の頃。

もう、苦しいし早く楽になりたい(笑)

妻がそう言うので、ギャル曾根さん情報だったかな?

焼肉を食べると産気づく?みたいな(笑)

妻とふたりで宇治市の天壇に焼肉を食べにいきました。

その夜中に妻が破水し、あわてて病院に送っていきました。

焼肉、ホンマやん!(笑)

妊娠当初から仕事に追われる私は、立ち合い出産できるとは思っていませんでした。

でも、病院まで送っていって

「じゃあ、頑張れよ」って言って、帰るわけにもいきませんよね?(笑)

苦しそうな妻の背中をさすったり、出産中は団扇であおいだりしかできない。

こういう時、男は何の役にもたたないと感じました。

無から有を生み出す、といえば大袈裟かもしれませんが

命の凄さと、女性にしかできない事の凄さを知りました。

長女の頭が出てきたと思ったら、そこからは一瞬に感じました。

やっと生まれてきてくれたと思った時、涙は出なかったのですが

涙ではない

目から鱗?

頭からブワーっと何かが流れたような?

はじめての感覚を味わいました。

上手く説明できないのですが(笑)

男はその時、何もできない、していない。

でも、ずっと心配していたんですよ!

同じことはできないけど、同じ気持ちになって!

そんな気持ちがブワーっと(笑)

そこから、人生観がガラっと変わってしまいます。いい意味で。

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長女です

「家を買おうか?」

長女が誕生し、1ヵ月ほど経った頃に考えてしまう。

俺らの本拠地ってどこや?

何処にもないな?

ないならつくろうか?

俺ら家族の本拠地を!

急にやる気に、そんな気持ちになりました(笑)

当時、私たち家族は借家を借りて住んでいました。

大工にとって、家とは

お客さんに喜んでもらいたいと思っている場所というか、作品だと思っていました。

別に、自分自身を喜ばせるためのモノではないと。

俺って家買えるん?という不安もありました。

リボ払いとかもしてたし(笑)

住宅ローン通るんか?

そんな不安がありながらも、建売住宅を見に行きました。

結婚後、住んでいた宇治市大久保の町内の方たちが、いい人ばかりで

その町内にある、完成後2,3か月売れずにオープンハウスしていた物件でした。

営業マンが丁寧に案内してくれて、大工目線から見ても

価格の割にお得な物件だと思える家でした。

考えて後日連絡します。こんな感じで、その日は帰りました。

1週間後、営業マンから電話があり

「他にも気に入ってくださったお客様が2組おられます」

「すぐに決めていただかないと売れてしまいますよ!」

と言われて、その場で妻と相談し

「買います!」と(笑)

今から思えば、営業マンの芝居だったような気もしますが(笑)

「すぐに申込金の10万円を家までいただきに行ってもいいですか?」

そう言われてトントン拍子に進んでいきました。

営業マンが家に来て住宅ローンの話になって、そこで初めて私の職業を聞かれて

「大工さんかぁ~」と落胆した声をあげる営業マン(笑)

大工さんに限らず、建設業界の自営業者は所得が低かったり、

そもそも確定申告をしていない人がいるなど、社会的に信用度の低い職業でした。

わかってはいたけど、あからさますぎる営業マンの落胆顔(笑)

「この野郎~!」って思いましたね(笑)

ローン無理なんかな?って思ってしまいました。

「されてるかわかりませんけど、一応、確定申告書見せてもらえます?」

どうでもよさそうに(笑) 営業マンがそう言うので、見せると

「え?」

「けっこうちゃんとしたはりますやん!」と。

失礼なヤツだなと思いながらも、悪い気はしない私(笑)

「これやったらイケますよ!」

と言ってもらえたので、住宅ローンを申し込みました。

ドキドキしましたね(笑)

2日後、一つ目の銀行から審査の返答が来る。

オッケーでした!

何ともいえない、世の中から認められた気がしましたね(笑)

さらに2日後、金利の低い本命の銀行からもオッケーをもらう。

建売住宅は、もう完成している物件を買うだけなのに

めちゃくちゃドキドキしましたね(笑)

住宅ローン審査のドキドキと、さらにいろんな事を決めていかなければならない

注文住宅を買う方は、もっとしんどい思いをされているんだなと、その時知りました。

仕事に対する思いも、さらに引き締まりましたね。

大工棟梁は責任の重い仕事だなと分かってはいたけど再確認ですよ。

そして、家族3人で新たな本拠地に移り住みます。

3人じゃなければ、欲しいと思わなかった新築住宅に。

引っ越しの日、新しい家の玄関に入った生後4ヵ月だった長女は

辺りを見渡して「キャキャっ」と笑いました。

家を買ってよかったなと思わせてくれました!

ドキドキした甲斐があったなと(笑)

建売住宅とはいえ、カーテンを選んだり

ん?

それくらいかな?

私たち家族の家づくりを楽しみました!

そこから2年間、家族でいろんな所に出かけたり

家で何もせず、ゆっくり過ごしたり

本当に幸せな時間を過ごしていました。


「また、命について考える」

長女の誕生から2年後、妻が再び妊娠しました。

しかし、妊婦健診で胎児の成長が遅いと言われ、不安になったのですが

長女の時も、いろいろ言われながらも無事に出産できたので

大丈夫やろ?と思っていたのですが、

お腹に2か月、妻は流産してしまう。

今までの人生で1番悲しい出来事でした。

私たちの子が世の中に出てこられない。

何もできない

何もしてあげられない

無力さを感じました。

この世に生まれる事だけで、凄いんやなと思いました。

私は、生まれてきたからには、もっと頑張れることがあるんちゃうかな?

頑張って生きていかないと恥ずかしいなと思いました。

ここから私は、いろいろ背負い込みすぎて少しおかしくなっていきました。

まずは、妻の心を支えてあげなければならないと思ったし

別に、悪い事してなくても悲しい事は起こる。

それなら、嬉しいことを増やしていくしかない。

乱暴な考えですが、妻が元気になるためには

絶対にもう1人、なんとしても子供がほしかった。

それしかないと思いました。

流産から半年ほどで、妻は再び妊娠しました。

もちろん嬉しいのですが、妻も私も不安でたまりませんでした。

それを振り払うように仕事に打ち込みましたし

妻の不安な気持ちが少しでも和らぐよう下手なジョークを言ったり

妻の体調が許す限り、気晴らしに出かけたりしました。

さらに、もっと頑張って生きていかなければ恥ずかしいと背負い込み

仕事を頑張るのはいいのですが、数字ばかりを追いかけていましたね。

数字は裏切らないから。

ここから私は

金を増やしては失うことを恐れ

恐れをやわらげるために金を使い、また稼ぐ

今から思えば本当に虚しい生き方をしていました。

着る機会もないのに高級スーツを仕立てたり

高級腕時計を買ったり

一時だけ気持ちよくなって紛らわせていたのでしょう。

それでも、妻のその後の経過は順調で

無事、第二子となる長男を出産。

また焼肉を食べに行って(笑)

慶人赤ん坊.jpg


私も立ち会ったのですが、本当に安産でよかったです。

こんなに安心したというか、嬉しかった事はありませんでしたね。

でも、私はというと

2人の子の父親として

それ以前に夫として

大工棟梁として

さらに、もっと頑張れないか背負い込みすぎて

おかしくなったままでした。


「父の死で、生き方について考えさせられる」

おかしくなったままの私に、妻はいつも気長に優しく接してくれました。

仕事ばかり詰め込み、帰りの遅い私にいつもLINEで子供たちの姿を見せてくれました。

これがなければ、もっと視野が狭くなっていたと思います。

そして、長男の誕生から1年半ほど経ち

私の父が危篤となりました。

父はヤンチャな人だったので、体はボロボロで何度も手術を受けていたので

さすがに覚悟はしていたのですが。

入院から3ヵ月後、亡くなりました。

その後、葬儀の段取りを私がしている時のことです。

家族葬の計画で準備したのですが、思っていたより

本当にたくさんの方がお参りさせて欲しいという事で、家族葬の規模ではなくなりました。

その頃の私は、少し貧しかった父を愛してはいたのですが、どこか小馬鹿にしていました。

言いたいことしか言わない、我慢できない、やりたい放題

少しおせっかいで、世話焼きで、誰かが困っていたら頼まれなくても駆けつける。

そこが魅力的だったので、愛してはいるけど尊敬はしていない、そんな感じでしたね。

そんな事ばかりしていたから、お金は残っていない。

もうちょっと効率よく生きられるやろ?と思っていました。

でも、そんな世話焼きの父を本当にたくさんの方が愛してくれていたのです。

そこで私は、自分自身の生き方に対して疑問をもちます。

「必要以上のお金なんていらんのかな?」

「俺はお金のためだけに働いてんのか?」

数字ばっかり追いかけて

元々こんな人間やったか?と。

やっと、自分の生き方が虚しいものだと気づいたのです。

妻と父に連れ戻してもらえたと思っています。

その後は、成金のような感覚がなくなっていった上での

「これから、どう生きるのか?」

を考えていくのです。


「自分で会社を作るしかないのか?」

少しおかしくはなっていましたが、仕事には真剣に打ち込んでいました。

遊びに走るとかは無かったし、そんな時間もなかったからです。

そんな時、ふと考えてしまいます。

直近10年間で200棟以上の新築住宅を完成させてきた中で、考えてみると

私がいいなと思う家は僅かだったのです。

なんでこんな間取りなんやろ?

このドア、なんでこっち向きに開くんやろ?

お客さんに対し、イエスマンばかりの営業マン。

本当にお客さんの事を考えてんのかな?

家族構成や10年後、20年後を見据えた間取りを提案していないと。

必要のないオプション工事を薦めて支払総額をアップさせたり

自由設計を謳ってはいるけど、規格住宅のほうが出来がいいのでは?

と思える提案ばかりなのでは?と。

私は、頑張って仕事をする以上、お客さんには喜んでほしいし

幸せになって欲しいと思って仕事をしてきたのですが、

お客様とは世間話をする程度しか許されない、大工棟梁という立場では

それができない。

歯痒い思いをし、ストレスを感じていました。

頑張れば頑張るほどストレスは大きくなっていきました。

その頃、我が家に第三子となる次男が誕生。

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2022年2月コロナ禍が始まる少し前の事でした。

コロナ禍は怖さもありましたが、家族の大切さを再確認できるいい機会になりました。

山栄工務店の山岡社長に教わった

「遊ぶために働け」(笑)を自分なりにアレンジし

「辛い時こそ遊んで笑う、また頑張ればいい」

そういうマインドで家族を引っ張っていきました。

行動制限がなければ、マスクして積極的に家族で出かけましたし

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妻と私で料理をする機会が増えました。

中でも、妻の作る鉄火巻きは絶品で、めでたい日には作ってもらっています。

そんな幸せな日々を送ってはいたのですが、私の心の中ではズレが大きくなっていきます。

大工棟梁としてのキャリアを積み、いろいろな事が見えるようになったからでしょう。

大工として、どれだけ頑張っても図面が悪ければお客様を幸せにすることはできない。

「もっと、こうしたらええのに」

そんなストレスは増していきました。

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こんなストレスばっかりのおっさんでは子供たちに胸を張って生きていけない。

そう思った私は、自身で会社を作ることを決意する。

「中1で辞めた勉強を45歳でまた始める」

エンドユーザーであるお客様から、直接仕事を請け負うには

建設業の許可というものが必要です。

国家資格を有しているか、10年間の経験があるという証拠と500万円以上の資金調達能力

を行政に提出しなければ取得できない、職人からすればハードルの高いものでした。

私は経験を武器に、大工工事という職種で建設業の許可を取得できました。

ただ、国家資格を有していないと、請負金額が1500万円未満の工事

または、延べ面積が150㎡未満の木造住宅工事しか請け負う事ができない。

これでは、請け負えない工事があると思い

国家資格が必要だと思った私は、建築士よりも施工管理技士という資格に魅力を感じます。

いくら設計が優れた建物でも、適切な施工ができなくては性能を発揮できない。

私は大工職人だったので、施工管理技士の重要性に気づいていました。

どうせ頑張るなら二級じゃなく、一級やろ?

私は、簡単な道より難しい道を選んでしまうタイプなので(笑)

専門学校に入り日曜日は勉強、一級建築施工管理技士の一発合格を目指します。

椅子に座って黒板を見ているだけで、理由もなく眠気がおそってきました。

だから勉強嫌いやったんやなと(笑)

それでも、試験に合格しないと会社を作るなんて無理やぞ?

自分を追い込み、少しずつですが勉強に励み

合格!!

一級建築施工管理技士を取得し、会社を作るための道が開けます。


「株式会社 stats living company」

を2023年3月に設立。

これまで、大工棟梁として300棟以上の新築住宅を完成させてきた経験から

もっとお客様に喜んでもらいたい。

幸せにしたい

これから家づくりをされる方は、もっと幸せになる権利があるし

幸せになれる方法があるし、それを私の経験から提案したい。

そんな想いで設立した小さな会社です。

これまでは

「自分自身の成長が誰かの役にたてる」

それが嬉しかったのですが、この頃から

「誰かの役にたちたいから、自分自身を成長させる」

考え方が逆転している事に気づきました。

私は、たくさんの方にお世話になり、こういう気持ちになれたのです。

お世話になった方々には感謝の気持ちでいっぱいです。

本当は、もっとたくさんの方にお世話になったのですが、全部を語ると

三日三晩はかかります(笑) ので割愛させていただきます。

私がこれから、どのように生きたいのか?

については、企業ミッションなどを読んでいただけたらなと思います。

ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました!

                                  
株式会社 stats living company 代表取締役 井上 茂雄


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